カンタベリー大主教説教

日本聖公会150周年記念聖餐式のための
カンタベリー大主教説教  
─「裸足の」宣教の継続を─


2009年9月23日、東京


日本を目指した聖公会の宣教の働きは何人かの巨人とも言うべき人々によって始められました。これらの人々の筆頭は、私たちが記念しております只今から数えて、150年前に日本においでになったチャニング・ウィリアムズ主教でありました。しかし、本日私は日本聖公会の性格と方向性を決定づけた、もう一人の偉大な神の僕、英国の有名な聖職の家系出身の、エドワード・ビカステス主教を取り上げたいと思います。兄弟がビカステス主教の記念のために出版した本には、同主教の献身や深い祈り、また、牧会的配慮などのことが非常に明瞭に記されています。

この本に収められている数々の鮮やかな思い出の中で特に際だちますのは、名古屋の大きな個人の住宅の一室で堅信式を司式するビカステス主教の姿を伝える、ある英国人聖職による日本訪問の記録です。その訪問者に強い印象を与えたのは、ビカステス主教が堅信式をするために靴を脱いで家に上がったというだけのことなのですが、それは彼にとっては、日本の習慣を非常に尊重した同主教の姿勢を示すものとしてとても重要だったのです。

このささやかな情景描写は、単に優れた儀礼的な所作の記録にとどまるものではないと私は思います。キリスト教の宣教は数多くの違った状況において、重い靴を履いた、全く自発的な多くの担い手の沢山の足がそれぞれの地を踏むことによって、担われて来たと言うことができるのではないでしょうか。しかし、裸足による宣教以外に宣教が現実化することはありえません。裸足は、基督教の歴史の中では、多くの場合、貧しさを示す印です。そのために、フランシスコ会やカルメル会がその改革に際して、心新たに質素な生活をする印として裸足、もしくは、サンダル履きで暮らすことを規則として採用したことを、連想することができると思います。これは痛みやけがを負う覚悟があるということを示す印でありますし。そしてまた、聖書にありますように、進むべき道を裸足で歩くということは旅の終わりに足を洗ってくれる誰かが必要だということをも示しています。しかし、聖書のみ言葉はほとんどの場合、聖なる地に立っているからこそ、その人は靴を脱ぐのだと述べられています。ですから、燃える芝のところで主に出会ったモーセは、その立ち位置が聖なる場所なので、靴を脱ぐよう命じられるのです。

これまで申し上げましたことは宣教の特質について、いったい何を語るのでしょうか。それは、質素でなければ、つまり、宣教者が自分の属する文化という防衛的な重装備、また、自分の政治力や権力などを捨てない限り、ミッションは効果的ではないということを語るのです。

日本に対するヨーロッパ人の宣教はこれまで常に政治、権力、貿易、金銭などと複雑な関係にありました。何世代もの長きにわたって日本におけるキリスト者の証言を封じさせることになった、17世紀日本の恐るべきキリスト教迫害は、外国人の野望に対する恐れが原因だったと言うことができましょう。またオランダとポルトガルなど異なる植民国家間の敵対関係がキリスト教の宣教の正当性を大きく傷つけることになりました。キリスト教の宣教を再度受け入れさせるための、19世紀における日本開国の努力もまた外国貿易や外国の文化を受け入れさせることと結びついていました。そして、日本のキリスト者は、ある段階にさしかかりますと、外国の文化という重い靴を脱ぎ捨てたいと熱望するようになりました。それは日本人キリスト者が、ちょうどヨーロッパのキリスト者同様、国家的な野望と愛国主義的侵略という新しい靴を履く準備ができた時期のことでした。

質素であるということは地面を軽やかに歩くということであり、信仰に関する異質な表現を押しつけもせず、信仰を国家の一時の利益や都合と結び付つけて考えることもしないということです。過去の誤ちに関して公的に謝罪と懺悔を表明し、犠牲者との和解を積極的に求めようとする、日本聖公会がこの数十年の歩みの中で示して来られた勇気は、非常に多くの人々を感動させて参りました。私は本教会の代表者が悔い改めと寛容の精神を分かち合ってくださった、1998年ランベス会議での礼拝を深い感動をもって思い起こします。あの8月6日、日本以外の代表たちは、日本の人々との和解を求めて懺悔の心でお付き合いしなければならないと、深く感じたことでありましょう。

私たちが軽やかに歩むこと、つまり、私たちに罪と過ちを認めさせなくする誇り、また、過去の傷をいつまでも引きずらせる恨みとを、二つながらに解放することをわたしたちが学ぶ時に、和解は実現するのです。日本聖公会は、このように軽やかに歩く能力によって、偉大な寛容を示して来られました。このような自由こそがこの社会とそれを含むより広い世界において日本聖公会が担いうる宣教の中身なのです。軽やかに歩くということはまた、私たちが自らの価値だとか、現在に至るまで自らが成し遂げたことの意味などに依拠するのではなく、むしろ自分の場所を訪れる来客を歓迎し、愛する創造者また贖い主のみ手の内に彼らを保つことだということを理解することでもあるのです。私たちは、自らの安全と成功を持続させるために力を尽くす必要はありません。なぜならば、何が降りかかろうと神は私たちをお支えになり、その尽きることのない憐れみをお約束くださるからです。

このことはまた、宣教が地面の石くれによって、また、簡単には望み通りに進ませてくれない私たちの現実によって、傷つくこと、私たちの足の皮や肉で直に地面を踏むことをも、進んで引き受けるということなのです。キリストはおん自ら地を軽やかに歩まれますが、そのみ足は、人間の歩みから生ずる妨げによって汚され傷つけられ、そして最後に拒絶という釘によって傷つけられるのです。キリストが死から起こされる時にも、その素足は危険と苦難の旅の印であり続けます。もし私たちがキリストと共に歩もうとするのであれば、私たちは主の自由とこの世に残された主の軽やかな足跡を共有することになるのですが、それと同時に、私たちは汚れや傷を免れることができないことをも覚悟しなければなりません。

肉体的あるいは精神的に苦しむ人々と同じ道を歩む時、宣教は最も現実的なものとなります。ただその場合にだけ、私たちはキリストの道を歩むことになるのです。再び日本聖公会に戻ります。日本聖公会は忘れられ見捨てられた人々、都市や田舎に住む貧しい人々、暴力に苦しむ女性たち、子供たち、在日外国人と共に立ち、また、共に歩もうとする積極的な姿勢を示しています。このような道を歩むことは成功や安全を保証することはありませんけれども、主イエスとの本当の交わりをもたらすに違いありません。主イエスとの交わりなくして、愛をもって他者と連帯することなどありえませんし、他者との連帯なくして主イエスとの交わりはありえないからです。

このことが、裸足で歩むこと、聖なる土地ゆえに自分の靴を脱ぐこと、と結びついた第三の主題に私たちを導きます。ビカステス主教は伝統的な日本の家族と同じように家に入る時に靴を脱ぎましたが、それは単純な行動に過ぎませんでした。しかし、その国の慣習に順応する外国人であったビカステス主教は、その家が聖なる場所に他ならないとこと、誰かに歓迎されることは神がそこにおられることの印であることを良くご存じでした。宣教師はどこに派遣されようとも、神が先立って行かれ、それぞれの場所を聖なる場所になさるということをわきまえていなければなりません。どこかの国や文化がただそれだけで神聖だというわけではありません。むしろ宣教において神が私たちをお導きになる時、神ご自身が接触し、癒そうとお望みになる、人間の命という聖なる空間に私たちを導入なさるのです。

このことを学ぶために長い時間が必要でした。しかし、私たちは初めて神をそこへお連れするような新しい状況に踏み込もうとしているわけではありません。神は常に私たちに先立って歩まれるからです。したがいまして、本当の宣教とは、神がいまし給う場所の印を求めること、また、その場所に至る道を備えるために神がなさっておられることの印を探し求めることだということになります。宣教とは語るのと同様に聞くこと、いや、道を備えたもう神に従順に従うことができるよう、語る前に聞くことを私たちに求めます。宣教とは、私たちの後においでになる神のための場所を整えるために、私たちの直面する現実を完全に否定することだけなのではありません。宣教とは、神に目を向け、神に耳を傾け、神が最も深い敬意と感謝をもって出会うよう私たちにお望みになる人々と連帯することなのです。そうすることによって、私たちは人々が投げかける疑問や、伝えたいと思っている求めについて本当のところを理解するようになるのです。宣教とは、人々を尊敬することに他なりません。

したがいまして、日本に聖公会の信仰が伝えられて150年がたち、この遺産に喜びをもって感謝しようとする今、私たちは自分たちがいかに良き音信(おとずれ)をもってこの国に、この社会に向き合おうとするのかを考えるよう求められているということになります。

先ず、第一に求められますのは質素であるということです。私たちは自分を宣べ伝えるのではなく、また自分をあらゆる人びとの疑問に対する答として提供するのではないと、聖パウロは語っています。私たちは神が和解と変革という約束によって大いなる賜物をお与えになることを弁え、また和解と変革の気構えをもって生きる戦いを自ら担うことによって、常にその物語の全体を始めそれを完全に実現なさる方として、神を指し示すのです。私たちは、人間の文化という賜物を感謝しつつもそれを絶対化することなく、軽やかに歩くこと、また、身軽に旅することを学ぶのです。

第二に求められますのはリスクと連帯です。私たちは自分を守ること、ただキリスト者の家族という小さな交わりを暖かく安全に守ることだけ、を求めることはありません。私たちは、イエスのみ名によって途方にくれる人々や不安にさらされている人々また抑圧された人々と連れ立って、人間の苦難の道を歩むのです。

そして、第三に求められますのは敬意を払うことです。私たちは傲慢かつせっかちにではなく、個人や文化を含めた、隣人の人間としての生活という豊かな素材から積極的に学び、それを喜んで受け止める姿勢で自分の隣人たちに向き合うのです。

もし私たちがこの「裸足の」宣教を継続できるならば、私たちはイエスご自身の単純明快さ、またそれゆえにキリストの変革の恵みと宣教の特質とを自らの姿勢として生きることになるでしょう。神は、大いなる激励と大いなる忍耐と「軽やかに歩く」ことへの大いなる喜びをもって、日本のキリスト者、特に聖公会の信徒たちを祝福しておられます。私たちがこの国に住む神の愛する子らに、イエス・キリストの良き音信(おとずれ)が全ての人に与える、自由と平和と希望の可能性、と、有意義かつ和解された生活の可能性を届けようと努める時、神が私たちと共に歩みまた私たちを通してお語りになりますように。


arch_b.jpg


(翻訳:司祭 輿石 勇)

2009.10.20 | 宣教150年記念礼拝実行委員会

«  | HOME |  »

FC2Ad

日本聖公会管区事務所

管区事務所 Web site HOMEへ

月別アーカイブ

ブログ内検索

RSSフィード

from nskk


九条鳩



150thanniversary