来るべきときへの備え

今、辺野古キャンプシュワブゲート前では「辺野古総合大学」講座が開校。著名人や平和活動家や音楽活動家などによる学びが連日繰り広げられています。国の強行工事再開を想定し、過去の県内の様々な所での阻止活動からの学びと、将来考えられる国のあらゆる強硬策について共有し合い、連帯を強めて備えることが狙いとのことです。今日の講師は復帰前後の「反CTS(石油備蓄)金武湾闘争」の真っ只中で奮闘した方です。

沖縄では日本復帰前後、日米両政府による経済政策が実施。米国は沖縄返還が決まった際、自国の企業を日本政府の協力で沖縄に優先的に誘致、それが石油備蓄基地建設だったようです。終戦後、伊江島の土地闘争から始まり、基地闘争が沖縄の主な活動の中で「平和産業」と銘打って投げかけたことによって住民は何の疑問も抱かなかったようです。しかし、復帰前年の1971年に石油備蓄基地(1969年建設、1970操業開始)のタンクからドラム缶990本分の重油が海に流出、金武湾一帯は死の海化したことによって、住民闘争が蜂起し、復帰後の田中角栄首相の列島改造政策による他の島々での建設計画をすべて阻止したとのことです。私の生まれ故郷の島でも計画されていたことを初めて知りました。

かつて金武湾は大浦湾と並ぶ県内でも有数の漁場だった。ウニや魚貝類、モズクなどの海藻類が豊富、特に沖合からカツオが入り込んでいた程の漁場だったとのことです。その漁場が日本復帰が具体化するにつれ、沖縄長期経済開発計画(1970年)や沖縄振興開発計画(1972年~1982年、10年ごとに見直す)、沖縄臨海工業開発(1971年、通産省調査団が50万㎘備蓄を報告)などの計画が沖縄経済の発展に寄与し、その貢献に期待がもてると当時の琉球政府や琉球大学教授らも乗り気になって進められた。しかし、結果として本土の地域住民による反対で沖縄の金武湾海域に他の施設も追加計画し、大規模へと変更していた。7項目の施設建設計画の中に石油のほか、アルミ、原子力施設なども含まれていた。

これらの話を聞きながら、本土の海兵隊はじめ米軍基地が沖縄に集中移設した時期と重なっていることに気付きました。講師も述べていたが、本土の住民が反対するものを沖縄にもってきたということである。私は金武湾内の磯でよく釣りをしますが、今のところフグしか釣っていない。

そして、この闘争活動で最も特異的なことは代表がいなかったこと。かつて豊富な資源で自分たちの命を繋いでくれた海が、死の海となったことに、“自分の命は自分で守ろう”を合言葉に、住民一人ひとりが自発的に、自主的に、主体的に地域に生きる代表者として抗議の声をあげ、闘争を繰り返して国の政策を阻止したと。今、ゲート前闘争のスタッフのほとんどが、当時のメンバーであることに納得しました。ゲート前ではスタッフが一方的に話しているだけでなく、県内外から訪れている方々にもマイクを渡して思いを語っていただき、みんなで分かち合い、共有し合っています。

沖縄教区
司祭 高良孝太郎

2016.04.19 | 正平・いま辺野古では

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