主の平和
教会の暦は聖霊降臨日を迎えました。いわゆる、教会の誕生日を憶え、祝われたことと思います。
日本聖公会も宣教150年のときを2009年に迎え、記念礼拝をささげました。その記録誌「日本聖公会宣教150周年」が発行されました。様々なことが重なり、ようやくの発行です。2年前のことを思い出し、ご覧くださればと思います。
各教会・伝道所・礼拝堂に1冊をお送りします。皆様にご案内くださり、ご希望の部数をまとめて、管区事務所にご請求ください。安い方法でお送りしますが、送料はご負担ください。(記録紙は無料です。)
なお、発行部数は3000部です。無くなりましたら終了とさせていただきますので、お早めにお申し込みください。
聖霊降臨後の期節、教会の働きがさらに導かれ、福音宣教の業が為し続けられていきますようにと祈ります。
主にあって
2012年5月28日
管区事務所総主事
司祭 相沢牧人
2012.06.11
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
9月23日記念礼拝信施金は2,467,666円でした。
この信施は、「カンタベリー大主教のアングリカン・コミュニオン宣教基金」に献げられます。
* アングリカン・コミュニオン宣教基金とは、全聖公会の管区や教会と、カンタベリー大主教の国際的な働きを支えるために設けられた基金です。
この基金のおもな3つの目的:
① 緊急時に、アングリカン・コミュニオンの管区や教会に援助をすること
② アングリカン・コミュニオンにおける重要な宣教活動や伝道活動を支えること
③ 国際連合におけるアングリカン・オブザーバーなど、国際機関や国際会議に公式代表者を送ること
アングリカン・コミュニオン宣教基金が目指しているのは、各地の教会や教区、管区の支援活動に取って代わるのではなく、アングリカン・コミュニオンを代表して現地教会の働きを支えることです。
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
■ 帽子 ロゴマーク入り 1000円
■ クリアファイル ロゴマーク入り(青年委員会作成) 3枚セット 500円
■ ボールペン(正義と平和・憲法プロジェクト作成)憲法9条入り 200円
お申し込みは管区事務所(tel: 03-5228-3171)へ。

■ 記念礼拝DVD
9/23記念礼拝および9/22夕の礼拝の模様を収録 価格1000円(送料込み)
2009年11月発売予定
お申し込みは宣教150周年記念礼拝実行委員会へ
(代行:東京教区事務所 足立・高柳 tel: 03-3433-0987)
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
宣教150周年からの出発
日本聖公会宣教150周年の記念礼拝は、当初の予想を遥かに超える3000人ほどの参列者が東京カテドラル聖マリア大聖堂に集い、聖霊の大きなうねりのような躍動感に満たされた。この記念礼拝からそれぞれの地に帰っていった人々によって、この日の感動が各地で伝えられていると思う。
この礼拝への準備段階として、今年の聖霊降臨日には、宣教150周年に際しての主教会教書が出された。その中で、私たちは、過去150年にわたる日本聖公会の歴史を顧み、多くの宣教師や先人たちによる宣教の働きへの深い感謝を表明した。しかしながら、その歴史の中で、日本聖公会がキリストの福音を忠実に証ししていくことができなかった過去もあったことを認め、それを神の前で懺悔し、人々への謝罪をも表明した。日本聖公会が、小さな教会でありながらも、そのような歴史を持った教会であることは、これからの日本聖公会の歩みにとっては、その宣教の方策を立てる上で大変重要であると思う。それゆえに、主教会教書が出された後、記念礼拝の特祷や懺悔、代祷の作成においても、また、記念行事の平和シンポジウムについても、その観点からいろいろな議論が行われた。
日本聖公会が今、どのような基盤の上に立ち、何を宣教の重要課題にしていくのか、それが今回の記念礼拝でもはっきりと表されたと思う。「こぎ出せ、沖へ」という主の呼びかけに、今私たちは新たな歩みを始めようとしている。過去への悔い改めから、「平和と和解」の器となるべく、日本聖公会は日本にあっても世界にあってもその使命を果たしていくことの再確認の場が今回の記念大礼拝であったと思う。「平和と和解」は教会のわざである以上、日本や海外の紛争、分裂、不正などにおいて、日本聖公会として積極的に関わっていくことが求められている。東アジアの平和のために、アングリカン・コミュニオンの一致のために。また「平和と和解」は、一人ひとりの使命でもある。「平和と和解」を大上段に構えるのではなく、身近な場で、私たちが関わらなくてはならないことがいくらでもあるのではないか。家族の中に、教会の中に、地域社会の中に、私たちは平和と和解をもたらす器として、ひたすら従順に、地道に、辛抱強く、主の福音を証ししていくことが大事だと思う。
首座主教 北海道教区主教 ナタナエル 植松 誠
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
日本聖公会宣教150周年記念礼拝を終えて
去る9月23日、カトリックの聖マリア・カテドラルを拝借して、日本聖公会宣教150周年記念礼拝を、予定どおり、無事に終えることができました。会場整理を担当してくださった方々によれば、当日用意した式文が、200部程度残っただけだそうですから、およそ3,000人ほどの方々が、全国からご参加くださったことになります。
この喜びの礼拝を共にささげる恵みをお与えくださった神さまに、まず感謝したいと思いますし、当日馳せ参じてくださった多くの聖職・信徒のみなさま、そして参列できなかったけれどもお祈りのうちにこの礼拝を憶え、支えてくださった全国諸教会のみなさまに深く感謝致します。
当初から、会場として拝借したカテドラルでは、全国からお集まりくださるであろう熱心な礼拝参集者を、収容し切れないのではないか、という危惧を憶えておりました。礼拝を準備する側と致しましては、誠に心傷む悩みでした。この恐れは現実のものとなりまして、多くの方々に、席のないまま、長時間立って礼拝をしていただく羽目になりましたこと、―予想されていたことだけに、誠に申し訳なく思っている次第です。そのような、必ずしも充分と言えなかった準備にもかかわらず、みなさまが忍耐と情熱をもって礼拝に参加してくださった、そして、礼拝を心のこもったものにしてくださったことが、何よりの大きな喜びでした。
また、実行委員諸兄姉、そして主教会の祈りの中での準備の実りとして、150周年に当たっての主教会教書と、当日の礼拝式文に表された、感謝・反省・ざんげ・喜び・新たな決意の精神が、礼拝のうちに一貫して表明されたのは、わたしたちの心に残る大切なことでした。
最後に、目白駅頭の案内に始まり、多くのボランティアの方々が、礼拝の開始から終わりまで、そして海外のお客様の送り迎えまで、心を尽くしてご奉仕くださったことは、礼拝そのものを充実したものとしてくださった大きな大きな要素であったと、心から御礼申し上げます。日本聖公会全体が、「こぎ出せ、沖へ!」と、未知の歩みを始めることができますように、心から祈るものです。
実行委員長 主教 植田仁太郎
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
日本聖公会宣教150周年記念
<こぎ出せ、沖へ> <みんな集まれ!>
ローワン・ダグラス・ウイリアムズ カンタベリー大主教は、「軽やかに歩くということ、それが、日本聖公会が担いうる宣教の中身なのです。」と。キャサリン・ジェファーツ・ショーリ米国聖公会総裁主教は、「自分の周りの社会を、天の国へと変えていけるかどうか。日本のよき地に育った種から、どのように福音を宣べ伝えますか?」と。
9月22日に行われた夕の礼拝ではジェファーツ・ショーリ主教が、翌日の23日の記念聖餐式ではカンタベリー大主教が私たちにメッセージを語ってくれた。これらのメッセージは、宣教150年を迎えた日本聖公会が、これからさらに福音宣教へと歩みを続けていくときに、多くの示唆を与えてくれていると思う。
2006年の第56(定期)総会で「2009年に宣教150周年記念礼拝を行う」という議案が可決され、記念礼拝実行委員会が立てられてその準備が進められてきた。さらには、今年に入ってプログラム委員会が立てられ、前日の企画が考えられていった。立教大学の好意で、大学の一部を開放してくださり、そこを会場にして「みんな集まれ」とのテーマの下で、夕の礼拝を中心に、様々なプログラムが実施された。
50数件のブースが出され、教会、施設、働きのグループが、自分たちをアッピールし、理解を求め、また交わりを深めていた。日本聖公会の全教会、施設の写真、また教役者の顔写真が展示され、いながらにして北海道から沖縄までの聖公会の教会の姿を知ることができたのではないかと思う。大韓聖公会からはオモニ合唱団が参加され、チャペルでのコンサートは、立錐の余地の無いほどの状態であった。そのほかにも、東アジアの平和と聖公会の役割というテーマでのシンポジウム、カンタベリー大主教と青年たちとの交わり、学食での交流会と、前日の賑わいは予想をはるかに超えたものであった。夕の礼拝は立教大学のタッカーホールが満員となり、座れない方もあった。おそらく1400人以上の方が礼拝に参加されたのだろう。
9月23日はカトリック教会の東京カテドラル聖マリア大聖堂をお借りしての記念礼拝である。朝からボランティアが集まり、それぞれの担当に分かれ準備が進められていく。午後1時30分からの礼拝であるが、早くから人々が集まりだした。150年の記念の礼拝を“一堂に会して守ろう”との思いが満ち溢れていると感じられた。約3,000人の方々が集い、これもまた予想をはるかに超えた。海外からは、イギリス、アメリカ、オーストラリア、香港、台湾、ミャンマー、フィリピン、韓国から来日され、この記念礼拝を共にささげてくださったことも感謝である。定刻になり281名の教役者団と奉仕者のプロセッションが始まった。粛々と入堂を迎える会衆、そして389番「主イエスよ われらの礎となり」の聖歌でもって聖餐式が始まる。およそ2,850名の方が祭壇の前に進み出ての陪餐、そして子どもたちはカンタベリー大主教から一人ひとり祝福を受ける。母親に抱かれた幼児が、目を見開いてカンタベリー大主教からの祝福を見つめている姿がかわいらしい。陪餐後には458番の聖歌「神の恵みは くすしきかな」で賛美した。荘厳な礼拝の最後は412番「主を求めよ 生きよ神の民」との力強い歌の中で退堂行進が始まった。この礼拝のために選ばれた聖歌の意味深さを味わいたい。聖歌が終えてもまだ続く行進の中、子どもたちが「大波のように」の聖歌を繰り返し歌い、そのかわいらしい歌声は一人ひとりの心を和ませていた。“楽しい”アクシデントはいくつかあったが、事故も無く無事に終えることができたことはありがたいことである。
日本聖公会に属する私たちは、150年の記念の礼拝は終えたが、さらに151年、またそれ以後へと向かって歩み続ける使命が与えられていることは忘れてはならないだろう。宣教150周年記念礼拝のテーマ(こぎ出せ、沖へ)であるイエスのみ言葉(沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい-ルカ5:4)にシモンが応答した言葉(しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう)を深く理解していきたいものです。そしてそれをさらに豊かにしていくためにも、今年の5月31日に出された「日本聖公会宣教150周年記念 主教会教書」を熟読していきたいものです。
管区事務所総主事 司祭 ヨハネ 相澤 牧人
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
日本聖公会150周年記念聖餐式のための
カンタベリー大主教説教
─「裸足の」宣教の継続を─
2009年9月23日、東京
日本を目指した聖公会の宣教の働きは何人かの巨人とも言うべき人々によって始められました。これらの人々の筆頭は、私たちが記念しております只今から数えて、150年前に日本においでになったチャニング・ウィリアムズ主教でありました。しかし、本日私は日本聖公会の性格と方向性を決定づけた、もう一人の偉大な神の僕、英国の有名な聖職の家系出身の、エドワード・ビカステス主教を取り上げたいと思います。兄弟がビカステス主教の記念のために出版した本には、同主教の献身や深い祈り、また、牧会的配慮などのことが非常に明瞭に記されています。
この本に収められている数々の鮮やかな思い出の中で特に際だちますのは、名古屋の大きな個人の住宅の一室で堅信式を司式するビカステス主教の姿を伝える、ある英国人聖職による日本訪問の記録です。その訪問者に強い印象を与えたのは、ビカステス主教が堅信式をするために靴を脱いで家に上がったというだけのことなのですが、それは彼にとっては、日本の習慣を非常に尊重した同主教の姿勢を示すものとしてとても重要だったのです。
このささやかな情景描写は、単に優れた儀礼的な所作の記録にとどまるものではないと私は思います。キリスト教の宣教は数多くの違った状況において、重い靴を履いた、全く自発的な多くの担い手の沢山の足がそれぞれの地を踏むことによって、担われて来たと言うことができるのではないでしょうか。しかし、裸足による宣教以外に宣教が現実化することはありえません。裸足は、基督教の歴史の中では、多くの場合、貧しさを示す印です。そのために、フランシスコ会やカルメル会がその改革に際して、心新たに質素な生活をする印として裸足、もしくは、サンダル履きで暮らすことを規則として採用したことを、連想することができると思います。これは痛みやけがを負う覚悟があるということを示す印でありますし。そしてまた、聖書にありますように、進むべき道を裸足で歩くということは旅の終わりに足を洗ってくれる誰かが必要だということをも示しています。しかし、聖書のみ言葉はほとんどの場合、聖なる地に立っているからこそ、その人は靴を脱ぐのだと述べられています。ですから、燃える芝のところで主に出会ったモーセは、その立ち位置が聖なる場所なので、靴を脱ぐよう命じられるのです。
これまで申し上げましたことは宣教の特質について、いったい何を語るのでしょうか。それは、質素でなければ、つまり、宣教者が自分の属する文化という防衛的な重装備、また、自分の政治力や権力などを捨てない限り、ミッションは効果的ではないということを語るのです。
日本に対するヨーロッパ人の宣教はこれまで常に政治、権力、貿易、金銭などと複雑な関係にありました。何世代もの長きにわたって日本におけるキリスト者の証言を封じさせることになった、17世紀日本の恐るべきキリスト教迫害は、外国人の野望に対する恐れが原因だったと言うことができましょう。またオランダとポルトガルなど異なる植民国家間の敵対関係がキリスト教の宣教の正当性を大きく傷つけることになりました。キリスト教の宣教を再度受け入れさせるための、19世紀における日本開国の努力もまた外国貿易や外国の文化を受け入れさせることと結びついていました。そして、日本のキリスト者は、ある段階にさしかかりますと、外国の文化という重い靴を脱ぎ捨てたいと熱望するようになりました。それは日本人キリスト者が、ちょうどヨーロッパのキリスト者同様、国家的な野望と愛国主義的侵略という新しい靴を履く準備ができた時期のことでした。
質素であるということは地面を軽やかに歩くということであり、信仰に関する異質な表現を押しつけもせず、信仰を国家の一時の利益や都合と結び付つけて考えることもしないということです。過去の誤ちに関して公的に謝罪と懺悔を表明し、犠牲者との和解を積極的に求めようとする、日本聖公会がこの数十年の歩みの中で示して来られた勇気は、非常に多くの人々を感動させて参りました。私は本教会の代表者が悔い改めと寛容の精神を分かち合ってくださった、1998年ランベス会議での礼拝を深い感動をもって思い起こします。あの8月6日、日本以外の代表たちは、日本の人々との和解を求めて懺悔の心でお付き合いしなければならないと、深く感じたことでありましょう。
私たちが軽やかに歩むこと、つまり、私たちに罪と過ちを認めさせなくする誇り、また、過去の傷をいつまでも引きずらせる恨みとを、二つながらに解放することをわたしたちが学ぶ時に、和解は実現するのです。日本聖公会は、このように軽やかに歩く能力によって、偉大な寛容を示して来られました。このような自由こそがこの社会とそれを含むより広い世界において日本聖公会が担いうる宣教の中身なのです。軽やかに歩くということはまた、私たちが自らの価値だとか、現在に至るまで自らが成し遂げたことの意味などに依拠するのではなく、むしろ自分の場所を訪れる来客を歓迎し、愛する創造者また贖い主のみ手の内に彼らを保つことだということを理解することでもあるのです。私たちは、自らの安全と成功を持続させるために力を尽くす必要はありません。なぜならば、何が降りかかろうと神は私たちをお支えになり、その尽きることのない憐れみをお約束くださるからです。
このことはまた、宣教が地面の石くれによって、また、簡単には望み通りに進ませてくれない私たちの現実によって、傷つくこと、私たちの足の皮や肉で直に地面を踏むことをも、進んで引き受けるということなのです。キリストはおん自ら地を軽やかに歩まれますが、そのみ足は、人間の歩みから生ずる妨げによって汚され傷つけられ、そして最後に拒絶という釘によって傷つけられるのです。キリストが死から起こされる時にも、その素足は危険と苦難の旅の印であり続けます。もし私たちがキリストと共に歩もうとするのであれば、私たちは主の自由とこの世に残された主の軽やかな足跡を共有することになるのですが、それと同時に、私たちは汚れや傷を免れることができないことをも覚悟しなければなりません。
肉体的あるいは精神的に苦しむ人々と同じ道を歩む時、宣教は最も現実的なものとなります。ただその場合にだけ、私たちはキリストの道を歩むことになるのです。再び日本聖公会に戻ります。日本聖公会は忘れられ見捨てられた人々、都市や田舎に住む貧しい人々、暴力に苦しむ女性たち、子供たち、在日外国人と共に立ち、また、共に歩もうとする積極的な姿勢を示しています。このような道を歩むことは成功や安全を保証することはありませんけれども、主イエスとの本当の交わりをもたらすに違いありません。主イエスとの交わりなくして、愛をもって他者と連帯することなどありえませんし、他者との連帯なくして主イエスとの交わりはありえないからです。
このことが、裸足で歩むこと、聖なる土地ゆえに自分の靴を脱ぐこと、と結びついた第三の主題に私たちを導きます。ビカステス主教は伝統的な日本の家族と同じように家に入る時に靴を脱ぎましたが、それは単純な行動に過ぎませんでした。しかし、その国の慣習に順応する外国人であったビカステス主教は、その家が聖なる場所に他ならないとこと、誰かに歓迎されることは神がそこにおられることの印であることを良くご存じでした。宣教師はどこに派遣されようとも、神が先立って行かれ、それぞれの場所を聖なる場所になさるということをわきまえていなければなりません。どこかの国や文化がただそれだけで神聖だというわけではありません。むしろ宣教において神が私たちをお導きになる時、神ご自身が接触し、癒そうとお望みになる、人間の命という聖なる空間に私たちを導入なさるのです。
このことを学ぶために長い時間が必要でした。しかし、私たちは初めて神をそこへお連れするような新しい状況に踏み込もうとしているわけではありません。神は常に私たちに先立って歩まれるからです。したがいまして、本当の宣教とは、神がいまし給う場所の印を求めること、また、その場所に至る道を備えるために神がなさっておられることの印を探し求めることだということになります。宣教とは語るのと同様に聞くこと、いや、道を備えたもう神に従順に従うことができるよう、語る前に聞くことを私たちに求めます。宣教とは、私たちの後においでになる神のための場所を整えるために、私たちの直面する現実を完全に否定することだけなのではありません。宣教とは、神に目を向け、神に耳を傾け、神が最も深い敬意と感謝をもって出会うよう私たちにお望みになる人々と連帯することなのです。そうすることによって、私たちは人々が投げかける疑問や、伝えたいと思っている求めについて本当のところを理解するようになるのです。宣教とは、人々を尊敬することに他なりません。
したがいまして、日本に聖公会の信仰が伝えられて150年がたち、この遺産に喜びをもって感謝しようとする今、私たちは自分たちがいかに良き音信(おとずれ)をもってこの国に、この社会に向き合おうとするのかを考えるよう求められているということになります。
先ず、第一に求められますのは質素であるということです。私たちは自分を宣べ伝えるのではなく、また自分をあらゆる人びとの疑問に対する答として提供するのではないと、聖パウロは語っています。私たちは神が和解と変革という約束によって大いなる賜物をお与えになることを弁え、また和解と変革の気構えをもって生きる戦いを自ら担うことによって、常にその物語の全体を始めそれを完全に実現なさる方として、神を指し示すのです。私たちは、人間の文化という賜物を感謝しつつもそれを絶対化することなく、軽やかに歩くこと、また、身軽に旅することを学ぶのです。
第二に求められますのはリスクと連帯です。私たちは自分を守ること、ただキリスト者の家族という小さな交わりを暖かく安全に守ることだけ、を求めることはありません。私たちは、イエスのみ名によって途方にくれる人々や不安にさらされている人々また抑圧された人々と連れ立って、人間の苦難の道を歩むのです。
そして、第三に求められますのは敬意を払うことです。私たちは傲慢かつせっかちにではなく、個人や文化を含めた、隣人の人間としての生活という豊かな素材から積極的に学び、それを喜んで受け止める姿勢で自分の隣人たちに向き合うのです。
もし私たちがこの「裸足の」宣教を継続できるならば、私たちはイエスご自身の単純明快さ、またそれゆえにキリストの変革の恵みと宣教の特質とを自らの姿勢として生きることになるでしょう。神は、大いなる激励と大いなる忍耐と「軽やかに歩く」ことへの大いなる喜びをもって、日本のキリスト者、特に聖公会の信徒たちを祝福しておられます。私たちがこの国に住む神の愛する子らに、イエス・キリストの良き音信(おとずれ)が全ての人に与える、自由と平和と希望の可能性、と、有意義かつ和解された生活の可能性を届けようと努める時、神が私たちと共に歩みまた私たちを通してお語りになりますように。

(翻訳:司祭 輿石 勇)
2009.10.20
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
日本聖公会宣教150周年記念プログラム 夕の礼拝
─日本聖公会のはたらき─
米国聖公会 キャサリン・ジェファーツ・ショーリ総裁主教 説教
2009年9月22日
エレミア31:8-9a、詩編103:1-6、マタイ5:1-10
今宵私たちは、日本聖公会宣教150周年を神に感謝するためここに集まっています。当時イギリス帝国の統治下にない地域で最初にこの管区が誕生したことにも感謝を捧げます。とはいえ、日本聖公会のルーツが実はアメリカ帝国主義にあることを、まず指摘したいと思います。1853年~54年ペリー提督が通商条約の締結を要求して来航した後、中国で活動していたアメリカ人宣教師が来日しました。神の働きは、平和や神聖さとは無関係の出来事から始まることもあるのです。
ウィリアムス師、リギンズ師、シュミット博士の3人の宣教師は中国から直接日本に入国し、医療や教育の分野で活動を始めました。そんな活動のひとつが現在この立教大学へと至っています。日本での積極的な宣教活動が許されるまでにはさらに数年が必要でした。しかし中国から来日したこれら宣教師たちの活動は、大変重要な意義を持っていました。19世紀半ば、聖公会をはじめとする各教派の宣教活動は、植民地主義の色彩を弱め、活動する地域の独自性を重んじる(indigenize: 現地化する)方向へ転換しつつあったのです。
これら3人の聖公会宣教師が来日したのと同時期、Henry VennとRufus Andersonが「宣教の現地化(indigenizing ministry)」について論じ始めました。その目的は、自力で宣教する力を持つ自立した教会を各地に広めることであり、そのような教会のありかたこそ、国策が変化するその後数十年間の日本において、日本聖公会が存続するために不可欠な要素となりました。
現地化し自立した教会、自らの力で宣教できる教会、という理想は預言者エレミアの描くビジョン---あらゆる場所から、様々な立場の人が集まり、神によって、それら全ての家族・国々がひとつにされる---の実現を助けるでしょう。このビジョンはまだ実現していませんが、この地に蒔かれた種は、すでに芽を出し、実を結び始めています。キリストの体に属するすべての組織と同様、日本聖公会の使命は、天の国を映す地上の姿として、全世界の和解、すべての創造物の和解に向けて働くことです。
この働きに加わるための非常に適切なヒントが、マタイによる福音書の中に2つ記されています。山上の垂訓の最初と最後の部分は、心の貧しい人、および正義のために迫害される人に、天の国へとつながる祝福が与えられると書かれています。この2つの要素は、日本聖公会とその使命を特徴づけるものです。
日本聖公会は、占領と戦争の暴力への加担を悔い改めたことで、世界のキリスト教徒に、勇気ある手本を示しました。心の貧しい人にとって、傲慢や自己弁護は不要です。彼らはただ真実を語ります。たとえそれが痛みを伴い、恥ずべきものであっても。この真実を通して、道、真理、いのちを分かち合い、天の国の実現を目指すのです。日本聖公会の謝罪は、韓国聖公会にも大きな影響を与えました。日本聖公会の証(あかし)がなければ、TOPIK(Towards Peace in Korea)の取り組みは不可能だったでしょう。
二つ目の祝福は、義のために迫害される人々に与えられます。日本聖公会が、沖縄やアイヌのために活動していることは、必ずしも広く知られているわけではありませんが、これらの地域に、天の国の物差しをもたらしました。この活動を通して、皆様方も祝福されています。
現在日本聖公会が直面する課題は、これまでの150年間と同じです。いかに信仰の人、心の貧しい人、正義の人となるか ―これらの価値を必ずしも大切にしない文化の中において。自分の周りの社会を、天の国へと変えていけるかどうかは、19世紀の宣教師たちのように、この3つの価値を生きることができるかにかかっています。(彼らもまたこれらの価値を、使徒パウロから学びました。)地域に根ざす教会は、パチンコ店やアニメ、匿名の群衆があふれる都会で福音を語っていかなくてはなりません。しかし過去にそうであったように、日本聖公会は現代においても、それを成し遂げることができるでしょう。
皆さんの証は、他者、特に同じように世俗的・物質主義文化のなかで努力しているヨーロッパや北米の教会にとって参考になるでしょう。皆さんは私たちに何を教えてくださいますか? 日本の良き地に育った種から、どのように福音を宣べ伝えますか?

(翻訳:高山絵美)
2009.10.19
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
教会・伝道所・礼拝堂 御中
日本聖公会宣教150周年記念に関してのお知らせ
―9月23日(水)午後1時30分―
主の平和
神様のお護りのうちに日々をお過ごしのことと思います。
さて、日本聖公会宣教150周年の記念礼拝の時が近づいてまいりました。
実行委員会、管区事務所はそれぞれにまた様々にその準備を続けております。そして、この礼拝が意義ある時となるようにと願っています。
当日ご参加なさる皆様に以下のことをご案内いたします。
・当日は教会敷地内に駐車することはできませんのでご了承ください。車でのご来場を考えておられる方は、各自で駐車場を手配してください。
・JR山手線目白駅前から会場までの専用バス2台を、午前11時30分から午後1時までの間、約20分間隔で用意いたしております。
また、その間にも10分間隔で通常の定期バス(200円)が運行されております。下車駅は「椿山荘前」です。
・礼拝後も午後4時から同じように午後5時45分を最終に目白駅までの専用バスを用意いたしております。
・当日は2千人以上の礼拝参加者が見込まれますので、すべての方が礼拝堂内に座れる席はありません。どうかご承知おきください。
・大聖堂の敷地内で食事することはできませんので、昼食はあらかじめ済ませてからお出かけください。
・開場・受付は12時30分からとなっています。
2009年8月20日
管区事務所 総主事
司祭 相沢牧人
<教役者各位>
プロセッションに参加されるとご返事をくださった方には「礼拝案内」を別送しています。もし、9月になっても届かないときは、至急管区事務所までお申し付けください。
プロセッションは230名でなされますので、会場の準備の都合上、申し込まれた方だけの参加となります。
150周年記念礼拝専用サイト
http://www.nskk.org/province/150th.htm
2009.09.04
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
皆さまにご協力をお願いしていた、
150周年記念礼拝に関する募金ですが、
お陰さまで7月末に目標額の1,000万円を達成することができました。
ご協力有難うございました。
150周年記念礼拝の為、大切に使わせて頂きます。
募金は終わりましたが、
記念礼拝、及び22日に開催される催しに、
様々な形でご参加、ご協力くださる方々の安全と平安のため。
また、礼拝、催しがお恵みの中で迎えられますよう
引き続き覚えてお祈りください。
2009.08.07
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
主の平和がありますように。
日本聖公会宣教150周年にあたり、各教会でそれを憶え、祈り、献金をおささげくださっておりますことを感謝いたします。実行委員会では、この特別な礼拝の準備を少しずつ進めておりますが、会場(カトリック・東京カテドラル聖マリア大聖堂)の整備その他、当日の礼拝のスムーズな進行を期す上で、あらかじめ出席される方の概数を把握しておく必要がございます。最終的には、「礼拝出席整理券」を発行して、会場に入れない方々が多数にのぼり思わぬご迷惑をかける自体は避けたいと存じます。
つきましては恐れ入りますが、本年9月23日午後13時30分から行われる記念礼拝にご出席の予定あるいはご希望の方々の人数を、教会ごとにお知らせいただきたく存じます。
尚、以下の点にご留意くださいますようお願いいたします。
○各教区代表の招待
各教区から主教様に加えて4名の代表の方々には、旅費と宿泊を管区でご用意します。宿泊ホテルは既に人数分を管区事務所で予約済みです。
○教区への旅費の補助
遠隔地の教区のために、以下の額を管区から補助致します、用い方は各教区でお決めいただくことになります。
◆北海道教区・沖縄教区・九州教区 各30万円
◆東北教区・中部教区・京都教区・大阪教区・神戸教区 各20万円
○参加希望者の人数確認について
参加をご希望なさる方々の人数を本年5月31日までに管区事務所宛・同封ハガキでお知らせください。これはあくまで予備調査で、申込みの手続きではありません。
○聖職の方々のプロセッション参加人数調査について
プロセッション参加ご希望の有無について、同封の葉書にてご回答ください。
2009年4月24日
宣教150周年記念礼拝
実行委員会
委員長 主教 植田仁太郎
管区事務所 総主事 司祭 相沢牧人
2009.04.30
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
イ-スタ-おめでとうございます
主イエス・キリストのご復活の喜びを記念し、また新たに宣教の業の歩みを重ねておられることと思います。
さて、今年9月23日には日本聖公会の宣教150周年を記念しての記念礼拝がささげられることになっています。実行委員会ではそのための準備を着々と進めています。また、海外の諸管区からも共に祝いたいと参加の返事も届き始めています。
この礼拝の実施のために昨年6月から関係諸費用を含め目標額を1000万円として募金活動をしています。その第2期として募金パンフレット一式を再びお送りいたします。前回お送りしたものと同じものですが、会場変更の差し込みを加えています。募金期間は4月から6月末までとしています。
どうか貴教会・伝道所・礼拝堂の皆様にご案内くださり、ご協力をお勧めいただければと願います。
なお、礼拝の会場が変更になっていること、カンタベリー大主教のローワン・ウイリアムズ師の来日が決定し、説教をしてくださることを、皆様にご紹介くださればと思います。
以上、どうかよろしくお願いいたします。お働きがますます祝福に充たされますように。
主にあって
2009年4月12日
管区事務所 総主事
司祭 相澤牧人
*募金は同封の振り替え用紙で6月末までにお送りください。

2009.04.16
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
主の平和
日々、尊い聖務にお励みのことと思います。
さて、お祈りいただいております「日本聖公会宣教150年記念礼拝」が明年9月23日に行われますが、その会場が同封いたしましたポスターのように変更となりました。
準備を重ねるなかで、より多くの人が、一堂に会することができることが大切であると考えてのことです。この礼拝堂はおよそ2千人の収容が可能となりますので、多くの方が集い、記念のときを迎えることができればと願います。どうぞその旨を貴教会の方々にお伝えくださいますようお願いいたします。
なお、カンタベリー大主教のローワン・ウイリアムズ師の来日も決定しました。
概要は以下のとおりです。
日本聖公会宣教150年記念礼拝
2009年9月23日(水)午後1時30分
東京カテドラル聖マリア大聖堂
以上です。
降臨節に入り、喜びのときを迎える準備の日々が、導きと祝福に満たされますようにと祈ります。
2008年12月3日
日本聖公会宣教150年記念礼拝実行委員会
委員長 主教 ペテロ 植田仁太郎

2008.12.08
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
教会の皆様一人一人へお伝えくださることを願います
主の平和
日本聖公会の宣教150年を記念する時があと1年と迫ってきました。今、実行委員会では知恵を出し合ってその準備を進めています。
ことに、今進められております募金活動をご理解ください。まもなく第1期の募金期間が終わりますが、すでにお送りしてあります献金袋をお配りくださって、教会の皆様にこのことをお知らせくださいますようお願い致します。
実行委員会では、このために信徒一人一人が500円をささげていただけるなら、目標をすることがかなえられると考えています。また、献金によってもこの働きに関わってくださるなら、宣教150年を記念する行事がさらに意義深くなるものと思います。
どうかよろしくお願いいたします。
なお、同封いたしましたポスターは掲示してくださいますようにお願いします。また、献金袋、パンフレットがさらに必要でいたら、管区事務所までご連絡ください。
主にあって
2008年9月16日
日本聖公会宣教150周年
記念礼拝実行委員会
委員長 主教 植田仁太郎
同封したポスター;

日本聖公会宣教150周年
記念礼拝のために
一人『500円』の募金を!
宣教150年記念礼拝と関連行事を行うために、感謝・祝福・決意の思いを込めて、献金をおささげくださいますようお願いいたします。全国からなるべく多くの方々に記念礼拝にご参加頂けるよう、この献金の主たる部分は、参加者の旅費などの補助として用いたいと願っております。
募金目標額は1,000万円です。この金額は、日本聖公会の全信徒が募金期間に一人がそれぞれ500円をおささげくださいましたなら、ほぼ達成できる金額です。一人一人の感謝と祝福と決意をもって、宣教150周年の記念礼拝と行事を備え、実行いたしましょう。
● 宣教150周年はいつですか?
2009年、来年です。
● いつから数えて150周年なのですか?
1850年6月 アメリカ聖公会から派遣された宣教師チャニング・M・ウィリアムズ司祭が長崎に上陸してから数えています。
● 記念礼拝はいつ行われるのですか?
2009年9月23日(水・秋分の日)に東京・香蘭女学校で行われます。
● 募金目標額はいくらですか?
1,000万円です。
●募金は主に何に使われるのですか?
遠隔地からの参加者交通費補助、海外からの来賓招待費用、日本聖公会150年小冊子刊行費用などなどに用いられます。
● どうやって募金すればよいのですか?
教会にある専用の募金袋に入れて、各教会での礼拝の時におささげください。
私たち一人一人のささげものが、ひとつ所に集められ、大きな力となって、この記念礼拝の実施へと向かうことができるでしょう。祈りとともにおささげください。
ポスターはpdfでご覧いただけます。
http://www.nskk.org/province//others/150th_0809.pdf宣教150年記念礼拝公式サイト
http://www.nskk.org/province/150th.htm
2008.10.09
| 宣教150年記念礼拝実行委員会
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