総会議長挨拶

第58(定期)総会、開会時における首座主教メッセージ


 本日、ここに日本聖公会第58(定期)総会を開催するにあたり、日本聖公会の11教区より、ご多忙の中、お集まりくださいました主教議員、聖職代議員、信徒代議員、管区諸役員の方々に深く感謝いたします。また本日ご臨席くださいましたご来賓の方々にも厚く御礼申し上げます。また、この総会のために会場をご提供くださいました牛込聖公会聖バルナバ教会、会場準備や食事、宿泊の手配、議会運営にご奉仕くださっている管区事務所職員の皆様、さらに、総会のためにいろいろ準備してきてくださった総会書記局の方々に心より感謝いたします。また、この総会を祈りをもってお支えくださっている全国の教会、聖職・信徒の皆様にも感謝をいたします。日本聖公会11教区からの代表が共に集まり、それぞれの教区や教会に、また一人一人に主が与えてくださっているお恵みや祝福、試練や挑戦を共に分かち合い、感謝し、励まし合う中で、私たちが、前総会期の日本聖公会の来し方を検証し、またこれからの進むべき方向を共に考え、祈り、新たな決意をもってその一歩を踏み出す機会となりますように、この総会開催中、聖霊なる神の豊かなお導きと祝福を心から祈ります。

 さて、今日までの第57総会期2年間を振り返っていくつか申し上げます。
 まず、世界の聖公会の状況から見ていきたいと思います。残念ながら、10数年前から続く全聖公会(アングリカン・コミュニオン)の混迷は、さらにその度合いを深めています。アングリカン・コミュニオンが分裂するのではないかとの危機感は、前総会時にもありましたが、その後、首座主教会議、ランベス会議、聖公会中央協議会(ACC-14)が開かれ、これらを通して、何らかの解決への道筋が模索されましたが、結果的にはこれらが出した決議、勧告、要請が生かされずに、状況はさらに複雑になり、多くの管区や教区、教会が、自分たちがアングリカン・コミュニオンのどこに立っているのかというアイデンティティの危機を感じ始めていると言えます。1998年のランべス会議は、「人間の性(ヒューマン・セクシュアリティ)」の問題で紛糾しましたが、最終的には、「同性愛は聖書と相容れない。同性同士の『結婚』(ユニオン)は教会としては認めない」という決議がなされました。しかし、その後も、2003年、アメリカ聖公会ではニュー・ハンプシャー教区で同性愛者の主教が選ばれ、また同じく2003年にはカナダ聖公会ニュー・ウエストミンスター教区で、同性同士の「結婚」が教区会で承認され、また最近では、今月15日に、アメリカ聖公会ロス・アンジェルス教区で同性愛者が補佐主教に按手されています。世界の諸管区の中には、アメリカ聖公会やカナダ聖公会との関係を断絶すると宣言したところもあり、また、アメリカ国内やカナダ国内で、それまでの聖公会から離脱を表明した人々が、自分たちで新たに「北アメリカ聖公会」(The Anglican Church in North America)という組織を作り、世界のいくつもの管区がこの新しい組織を、アメリカやカナダにおける自分たちの正当なパートナー管区として承認しています。アメリカ聖公会やカナダ聖公会を除外して、新たなアングリカン・コミュニオンを作ろうとする動きも始まっています。

 このような混迷と分裂の危機にあって、世界の諸管区を一つの契約によって互いに規定しようとする試みが、アングリカン・カバナント(聖公会誓約、または聖公会契約)です。もともと聖公会という教会は、教会内に多様な文化、伝統、福音理解、礼拝などを内包する教会でした。日本聖公会だけをとってみてもSPG系、CMS系、ハイチャーチ、ローチャーチ、都市部の教会、農村教会などの幅広い多様性があります。それが世界大の教会として考えた場合でも、その多様性の豊かさを認め合い、受け入れてきた教会でした。すなわち、それゆえに、世界の聖公会諸管区の関係を規定する契約を必要だとは思ってこなかったのです。日本聖公会主教会としては、アングリカン・カバナントを策定しようとする動きが出たときから、それは聖公会のやり方ではないと主張してきました。その考えは今も変わりません。しかし、現在のアングリカン・コミュニオンの深まる混迷と分裂の危機を見るときに、それを解決する一つの手段がアングリカン・カバナントであると世界の教会が考えているならば、日本聖公会としてはそれに協力したいという思いを持ちながらも、今後もその問題については、声を上げていこうと思っています。

 10年に一度のランべス会議が2008年にイギリスのカンタベリーで開催されました。
アングリカン・コミュニオンの混迷の中で、集まった約650人の主教たちは、その事態に対して、問題解決のためには先ず静まって神のみ声を聴くことが大事であるとして、その初めの数日間を祈りと黙想の中で過ごし、また、参加主教たちが互いの意見や考えを十分聴き合い、また語り合う「インダバ・プロセス」と呼ばれる小さなグループでの話し合いが繰り返されました。この会議では決定的な解決策は見出せなかったものの、世界の聖公会が分裂せずに一つの教会として今後も歩み続けることへの熱い思いと希望を確認できました。このランべス会議には日本聖公会からは主教だけでなく、青年たち、また、憲法9条を世界の教会にアッピールするために信徒の方々が参加されたのも意義深いことでした。

 日本聖公会と大韓聖公会との関係は、今回のランべス会議においても人々の注目を浴びました。大韓聖公会主教団が司式した聖餐式は、東北アジアの平和への願いがテーマでしたが、その代祷に日本聖公会の首座主教が招かれて、日韓の聖公会の過去から現在までの交わりの回復と和解への取り組みを主が導き祝福してくださったことを感謝し、これからもこの両教会が手を携えて平和の器として歩み続けることができるようにと祈りましたが、混迷の中にある世界の諸管区の主教たちからは、この礼拝が、また日韓聖公会の協働が、彼らに大きな励ましと希望を与えたとの声が聞かれました。

 日本聖公会のどの教区も聖職者の数が足りない現状で、大韓聖公会から宣教協働者を派遣していただいており、現在、18名の韓国人聖職が、8教区で宣教牧会にあたっておられます。また、今年6月末から7月初めには日韓聖公会合同主教会が開かれます。さらに、両聖公会の青年たちの交流、韓国での社会宣教の学びも継続的に行われており、また2011年6月に沖縄で開催予定の第2回世界聖公会平和大会に向けても大韓聖公会と協働しながら準備が始まっています。今年は日本による韓国併合100年の年です。私たちが歴史から学びながら、よき隣人に成るべく、大韓聖公会とのさらなる宣教協働と交わりを深めていけるように祈っております。

 昨年、私たちは日本聖公会宣教150周年を祝いました。そのために、それぞれの教区、教会、聖職・信徒の皆さまのお祈りと献金をいただきましたことを深く感謝いたします。これまでの150年間を振り返り、私たちは主によって遣わされた多くの宣教師たちと、それぞれの地で歴史を担ったすべての聖職と信徒を覚えて感謝しました。しかし、また、私たちの教会が時には弱く、過ちを犯し、この世の力に押し流されてきたことも認めてその悔い改めのためにも祈りました。9月23日にはカトリック教会の東京カテドラル聖マリア大聖堂で、カンタベリー大主教ローワン・ウイリアムス師父を始め、海外、特にアジアの聖公会から多くのゲストを迎え、3000人を超える人々と共に感謝賛美の礼拝をささげました。裸足で宣教する、すなわち、日本聖公会が日本という地において、日本にいる人々に、彼らにとっての福音を語ることの大切さをカンタベリー大主教はその説教の中で力説されました。150周年の標語が「こぎ出せ、沖へ」であったように、私たちの150周年は、これからの私たちの裸足の宣教のスタートになるものです。

 昨年1月から2月にかけてエジプトで開かれた首座主教会議の際、また日本聖公会宣教150周年礼拝の際、外国の首座主教や主教たちに何度も聞かれたことがあります。それは、「日本ではクリスチャンの人口が1%にも満たないとのことだが、その日本で、そもそもあなたはどうしてクリスチャンになったのか」ということと、「そのような非キリスト教社会であなたはどのように生きているのか」ということでした。彼らにしてみると、日本におけるクリスチャンの存在は大きな驚きであり、クリスチャンがそこでどのように生きているのかに大きな関心があったのでしょう。しかし、まさにこの質問こそ、宣教150周年を迎えた私たちが答えなくてはならないものであると思います。なぜ私はクリスチャンなのか。クリスチャンであるということ、(或いは、聖公会の聖職・信徒であるということ)は、私にとってどれほどの意味があるのか。どれだけ私は自覚的な聖職・信徒であるのか、そこがまさに問われているように思います。

 1%にも満たないという日本のクリスチャン人口、その中でさらに小さな群れである日本聖公会。教勢は伸びていません。教会はどこでも高齢化や若者の教会離れが進み、財政的には献金も減っています。どこの教区でも聖職の不足は深刻です。まるでデフレスパイラルに落ち込んでいくような無力感が漂っているように感じてしまうこともあるかもしれません。しかし、それこそ、私たちが信仰の原点に立ち返るようにという主の呼びかけに耳を傾け、心の目を向ける時だと思います。
 
 もう一度、「こぎ出せ、沖へ」という主のみ声を聴きましょう。ヨハネ福音書によれば、主のご復活の後、弟子たちはガリラヤ湖で漁をします。夜通し漁をして何も獲れません。明け方、彼らはイエス様が岸辺に立っておられるのに気がつきます。「舟の右側に網を打ちなさい」という主のみ声に従って網を下ろすと、大漁で網は破れそうになります。弟子たちは今まで舟の右側に網を打たなかったのでしょうか。自分たちの経験や勘、技術などがまったく役に立たないという失望、あきらめ、無力感の中で、彼らはきっと手当たり次第に舟の右にも左にも、前にも後ろにも網を打ったと思います。しかし、何も獲れませんでした。夜通しやってきたことと、今舟の右に網を下ろすのは何ら変わったところはないのです。しかし、今回は大漁でした。何が違ったのでしょうか。主がそこにおられたということです。彼らの夜通しの漁、それは彼らが間違っていたとか、技術が未熟だったということではなく、復活の主のご臨在に彼らの目が開かれていなかったということです。今、私たちの教会が置かれている状況を考えたときに、何か新しいことを、もっと画期的なことを、もっと上手にしなくてはと私たちは思いがちです。それも大事かもしれませんが、その前に、復活の主が共にいてくださるという単純な信仰の原点に帰ることが求められています。昨日まで行ってきたことを今日も繰り返す、それでも良いと思います。そこに主のご臨在を信じて、お導きと祝福を求めつつ、収穫の喜びを先取りしながら網を打つこと、その信仰の視点が必要です。私たちのこれからの宣教の方向性を求めて、今年8月にはプレ宣教協議会、2012年には宣教協議会が開催されます。「こぎ出せ、沖へ」は、試練や挑戦を意味するのではなく、主の祝福が豊かに用意されていると信じて、希望と感謝をもちながら、歩み出すことだと思います。


日本聖公会総会議長 首座主教 ナタナエル 植松 誠  

2010.06.17 | 総会

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